そんな私にだって人間性はある。愛を歌う歌は理解出来ないが、だからといって愛を全く理解できないことはない。積極的に恋愛ドラマは見ないが、恋愛を主としないドラマやアニメにもその要素はある。それを見て人並みの感情は沸くし、役者達の演技に過ぎないとか、アニメのキャラクターで現実のことではないなどとは思わない。日常でも異性に好意を持つことはある。

高齢の母親の面倒を見ているが、これも私に愛情がなければしないことだろう。それも私の仕送りを散財した母親で、介護が必要になり施設に入れるとなったら、そのお金も自腹で払わなければならない状況だ。それでも母親は心情的に切りづらく背負うことにしたのだ。

年金をきちんと払わず貯金もしなかった母親だが、彼女にはサイコパス傾向は見られない。母親は典型的な不注意型ADDだと思う。金銭管理だけでなく冷蔵庫の食材管理もできない。同じ食材がぎっしりつまり奥の方で何かが腐っていることはしょっちゅうだった。家も無駄なものがあふれ雑然としていた。私は母親ほど無頓着ではないが、私の不注意型ADD傾向は母親の遺伝だと思う。

ただ母親には子供に対する愛情は明確に見て取れる。私達子供の写真を撮りためており、時折私達の子供時代の写真を取り出して見ていたり、それを楽しそうに話したりもする。ただ刹那的で将来の計画を練るようなことができないのだ。母親の母親は50代で亡くなり、姉も60歳で亡くなっている。だから自分もそれくらいで死ぬものだと思っていて、年金で生きながらえることはないと思っていたのも無計画の原因だ。

「平気でうそをつく人たち」の著者は刑務所にいる犯罪者の治療も長年してきたらしいが、彼らを邪悪と意識したことはほとんどないという。彼らは場当たり的に罪を犯し、心配や不安の欠如はある種の無邪気さだという。私の母親は犯罪者にはならなかったが、そういった刹那的な無邪気さがある。そこに愛嬌や人間味を感じるから情が湧き見捨てることはできないのだが。

私と似たようなサイコパス傾向がある妹にも人間性は見られる。母親が脳梗塞を起こし入院した時、妹に電話し伝えると、消え入りそうな声で返事をし、仕事を切り上げて遠方から見舞いに来た。ろくに言葉を発せない母親を見て、青ざめ明らかにショックを受けていた。その後も回復するまでよく見舞いに来ていたし心配している様子だった。

母の日に毎年花を贈るし、ペットを飼って可愛がるところもある。音楽も聴くしカラオケも行くので、私のように歌の歌詞がわからないから不快になるといったこともなさそうだ。また私と違って学生時代からの友達との付き合いも続いているようだし、なんでも話せる気の合う友達がいると話していたこともある。この辺は広く浅い付き合いをする私とは対象的だ。

父親の親族も今になってみれば人間性は見てとれる。数年前にひさびさに会った父親の妹は子供の仕事のことを心配する話をしていた。父親の姉の1人は旦那の収入が少ない頃、働いて家庭を支え、私が子供の頃、金銭支援もしていた。別の姉は時折手紙を送ってきていて、その内容も人としての感情が見て取れる内容だった。そして父親以外全員、老後自活していることから、子供の人生を考える責任感もあるはずだ。

こうやって親族にも人間性がある事を確認すると、父親の異質性は際立つのである。テレビはニュース、自然番組、アクション映画などは見るが、人の感情にうったえるような番組を見ているのを見たことがない。本も仕事で必要な実用書は読むが、小説や漫画などは一切読まないし嫌いだと言っている。音楽番組を見ることはあるが、やはり歌が入らなものを好む。父親は演歌世代だが演歌も嫌いだと言っている。さらに仕事仲間に誘われたら飲み会に行く程度で、プライベートでは友達らしい友達は一人もいない。もちろんペットにも関心を示さない。

母親が脳梗塞で入院したことを父親に電話で伝えた時もおかしかった。「ほほーう」とすっとんきょうな半笑いの声で反応したのだ。なぜこんな反応なのかと唖然としたが、すぐに病院には来た。口も聞けない母親を見た時は黙って見ていたが、ショックを受けているというより、ただ傍観しているだけに見えた。妹のように明らかに見て取れるような人間的感情を読み取ることはできなかったのだ。

その後も週末には単身赴任先から見舞いには来ていたので、やはり母親に感情はあり、突然のことだったので動揺し反応がおかしかったのだろうと、その時は思った。しかし、これは先述したとおり正しい人間のように振る舞うための虚偽だろう。

やはり親族の中でも父親は突出して異常である。メンツを守るために人間らしい振る舞いをしているだけで、本当に人間らしい心がどの程度あるのか疑わしく思えてくる。父親は私達とは比較にならないほど共感力が低いのだろう。

>>つづく

私にはサイコパスの本で挙げられているようなサイコパス傾向があるが、当てはまるものと当てはまらないものがある。また親族間でも傾向が異なる。サイコパス傾向の基礎となる共感力の低さは共通して遺伝しているが、他のランダムで遺伝した形質によって差異が生まれるのだろう。

愛を理解できないというサイコパス傾向は、私の場合、歌に当てはまる。愛に関する歌を聞いても何にどう感動するのかさっぱりわからないのだ。歌詞だけ読んでも意味不明なポエムにしか思えない。そして意味がわからないからか歌が耳に入ると不快に感じるのだ。

今はテレビをほとんど見ないが、昔はダウンタウンの番組をよく見ていて、彼らの音楽番組も見ていた。ミュージシャンをゲストに呼びトークをしてから歌に入る番組構成だったが、トークの部分は面白いので見るが、歌が始まったらミュートにしていた。歌だけでなく相田みつをのような筆で書いた感情に訴える詩のようなものも見るとなぜか不快な感情を抱く。

人間関係が長続きせず、ころころ付き合う人を変える傾向も当てはまる。私は学生時代の友人とは一切付き合いがないし、昔を懐かしんで会いたいとは思いもしない。また親友のような存在もいない。同じ人とずっと付き合うと共感を求めてくるし、共通の知人の噂話をしたりする。共感力が低いからか、そのような話を聞くのがわずらわしく苦痛なのだ。

しかし学生時代は親友のような存在はいた。仲間内でつるんで噂話の輪に入っていたが、サイコパス傾向が表面化してから、そういうことができなくなっていった。かといって人付き合いが全く嫌なわけではない。新しい話を聞くことは好きなので、広く浅く付き合うことはする。知的好奇心を満たす対象としての人間は好きなのだ。

普通は情が働く場面でも冷淡に合理的な決断を下すというサイコパス傾向もやや当てはまる。人を騙して陥れようとは思わないが、仕事で請け負うとリスクが大きいことを避けたり、ミスをした本人が責任を取るべきと思ったら、情は脇に置かれ頭の中で冷淡な計算が始まり、保身と心理誘導のための屁理屈を考え始めるのだ。

また裏切った人間、私に損害を与えた人間は絶対に許さないし即座に関係を切る。能力がない、性格もしくは交友関係に問題があるなど、これ以上付き合うと私に被害が及びそうだと判断した場合も即座に関係を切る。その時に情が邪魔することはほとんどない。

父親に関しても今や冷淡な感情しかない。なぜ実の父なのに私の人生を考えてくれなかったのかと普通の人間は引きずるかもしれない。しかし私は子供の人生を考えない親なのだから、私だってもう面倒はみなくていいはずだ。もともと偏屈でコミュニケーションを取るのが面倒だったし、もう関わらなくて良い理由ができたし、これで良かったかもしれない。と割り切れてしまうのだ。

また兄弟に対する感情が希薄で、一緒に住んでいてもただの同居人程度にしか思わないという傾向も当てはまる。私も妹のことを子供の頃の元同居人くらいにしか思っていない。一緒に住んでいた時も親しみのような感情を抱いたことはない。妹もそうだと思う。何か恨み言があるわけでもない。ただ何ら特別な感情を持てないのだ。

また妹のことをどことなく気持ち悪く思っている。容姿の問題ではない。むしろ容姿は平均より良い方だと思っているが、なぜか気持ち悪いと思うのだ。たぶん妹の方もそうではないかと思う。推測であるが先祖は閉鎖的な村社会の中にいたから、身近な異性の親族を気持ち悪く思うことで近親相姦に対する防御精神が強く働くような遺伝的形質があるのかもしれない。

私は怒りで集中力を高めるようになってから、ささいなことで不機嫌になったり、付き合いがあった人を理由なく嫌うようになったり、人の悪いところを見つけ嘲笑したりするようになった(今はコントロールできるが)。そして、このような排他的思考は父親とその親族にも見られる傾向であり、私の妹にもある。

私は後天的にそうなったが、妹は子供の頃からそういう傾向があった。妹とまだ一緒に住んでいた頃、雑誌に載っている嫌いな芸能人の顔写真に大きく死ねと書いていたりするのを見て、自分にはない何かを抱えていると気味の悪さを感じていた。しかし、今はそれが何かを理解できる。私自身こうなってみて妹の頭でどのような思考が巡るのかわかるようになったからだ。

妹とはめったに話すことも一緒に出歩くこともないが、数年前に母親と3人ででかけたことがあった。その時に、視界の遠方に太った女性が大きなアイスクリームを買って食べているのが目に入った。その時、私は「そんなに太ってるのに、そんなもの食うなよ。だから太るんだデブ」という思考が浮かんできたのだが、それとほぼ同時に妹が「あれ見てみ。あんなもんばかり食べてるからあんな太るんだわ」と嘲笑気味に言い、私と思考がシンクロしたのだ。

太っている人を馬鹿にするのはよくない事だとはわかっている。だから口にだすことはしない。ただ、自己観察していて思うのは、こういう思考はゼロコンマ何秒で意識に登ってくるもので、私がそのように考えようとして生み出した思考ではないということだ。妹だってそうだろう。

もしくは私だって太っている人に不快感を覚えるし、それくらい言うこともある。それが特別おかしいことなのかと思うかもしれない。しかし、そういう嫌悪感を抱いたり嘲笑するための対象を普通の人より積極的に探そうとする傾向が私達にはあるのだ。

私達のようにADD、サイコパス傾向があると、脳の覚醒レベルが低くなりがちなので、脳は覚醒レベルを上げるための意識を作る材料を探そうとする。しかもその意識は共感力が低いせいで嫌悪、嘲笑など人を悪く思うようなものに流れがちになるのだと思う。

このような傾向がない人には言い訳のように聞こえるかもしれないが、自分と他人の観察を続けていると、やっぱり私と人並みの共感力がある人とでは意識や心のあり方が遺伝子レベルで異なる、抽象的な言い方をすると魂の色が違うように感じるのだ。

>>つづく

才能と遺伝の関係については「超一流になるのは、努力か才能か」という本で深く彫り下げられていて参考になる。この本では才能という遺伝子はない、才能はあくまで努力によるものだという視点で語られている。様々な例が挙げられているが、娘3人をチェスのプレイヤーに育てた親の話が興味深い。

超一流になるのは才能か努力か?
アンダース エリクソン
文藝春秋
2016-07-29


さまざまな分野での天才を研究をしてきたハンガリーの心理学者が、教育で天才を作れることを自分の子供で実証した。娘3人がチェスに興味を抱くように仕向け、繰り返し練習させ、3人共狙ったとおりチェスのトッププレイヤーに育てたのだ。そのうち3番目の娘ユディエット・ポルガーは女性の世界ランキングで長年1位を維持し、女性史上最強と言われている。才能は教育で意図的に伸ばせるということの証明である。

人並み以上の能力がある人は、その能力に関わる脳の部位が肥大しているという。つまり筋肉と同じで努力して鍛え上げることによって才能になるのであって、生まれながらの才能という遺伝子はない。長期間のたゆまぬ努力の蓄積が一流の才能をもたらすというのが、この本の基本的な主張である。

しかし、特定のことに興味を持ったり、それを長く継続する意思は、何によって生み出されるのだろうか。遺伝子の影響の話に立ち返ってみると、家庭環境の影響はそれほど大きくはないようだ。才能を伸ばす方法についてよく知る親なら、教育によって意図した才能を伸ばせるかもしれないが、ほとんどの親はそうではない。

子供の才能を伸ばす方法を熟知しているわけでもなく、虐待して精神にダメージを与えるわけでもない。多くの人はそういう普通の親の元に生まれてくる(この点においては私の両親もそうだ)。そういう環境で人並み以上の才能を開花できるかどうかは、やはり遺伝的資質によるものが大きいのではないだろうか。私自身を自己分析してもそう感じるのだ。

私は誰かに今の職業につくように言われたわけではないし、自主的にこの仕事に興味を持ち、就職するまでは同じ目標を持つ仲間もいない中、一人のめり込み独学で学んでいった。しかし、数字を扱う技術職を選んだことは、父親、祖父と共通している。

私の仕事はある程度、数学の能力が必要だが、小学生から中学まで算数塾に通っていたことが、その基礎となっているだろう。つまり努力によって伸ばした能力であるが、当時は集中力が低く嫌なことはすぐやめる私が、なぜ算数塾は苦痛に感じず通い続けられたのか。数字との親和性は父型の遺伝ではないだろうか。

学生の頃、美術の授業で風景画を描くのはうまかった。また一時期、パソコンで絵を描いていたこともあるし、その出来栄えも悪くはなかった。スマートフォンで手軽に写真を撮れるようになってからは、よく食事や風景の写真を撮るようになった。人と比べてもひんぱんに撮る方だと思う。なぜそんなに写真を撮りたがるのか私の心に聞いてもわからない。

これは母型の遺伝的影響に思う。母親も写真を取るのが好きだし、絵の才能もあり美術教室に通っていたこともあった。そして母親に聞いてみると、母親の父親も家具に彫刻をしたり、やはり美術の趣味や才能があったようなのだ。また私の妹にも絵の才能があるようだ。(先述の二卵性双生児は美術の才能の類似性が5%という低さからすると、私達の美術的才能の類似は特異なケースかもしれないが)

私は仕事としては美術ではなく技術を選んだ。この理由も私の心に聞いてもわからない。ただ、父型の数字との親和性の遺伝のほうが強く働いたと言うくらいしか説明がつかないだろう。また、このように客観的に分析すると、自分の欠陥は遺伝的なもの、先祖の呪いと言い聞かせてきたが、才能の基礎となる遺伝子も両親から引き継いでいると今は思えるのだ。

しかし、両親の家族に対する責任感の欠落は全く理解できない。私は長年仕送りをしてきたし、両親の老後生活が破綻した時、東京での生活を捨て地元に戻り立て直そうとした。そんな私からすると無年金で老後を迎える両親の責任感のなさは考えられないことだ。

このような両親の元に生まれたのに私に責任感があることも環境では説明がつかないだろう。これは祖父の遺伝ではないかと思う。父親に祖父に似ていると言われたことがあったが、当時はあんな爺さんと一緒にするなと思っていた。父型の親族に良い印象がなかったし、祖父ともろくに会話したことがなく、偏屈でいつもしかめっ面の爺さんくらいの認識しかなかったからだ。

しかし後に知ったが、祖父は自分に全く否のないことで人生が狂い貧しい生活を強いられたが、最後は子供に頼ることなく老後自活できていた。だから父親としての責任感はきちんとあったはずだ。また父親の姉の1人は旦那に収入があまりない時期に自分が働いて家庭を支え、さらに私のために金銭支援もしていたらしい。老後の今も自活していることから責任感があることをうかがえる。この方と私は祖父が持っていた責任能力を遺伝的に引き継いだのではないだろうか。

また祖父は読書の習慣があったらしいが、父親は読書を嫌い仕事で必要なこと以外は本を読まない。私も昔は読書が苦手だったが、今は読書をするしウェブの記事もよく読む。やはり祖父と私は似ているのかもしれないと、今となっては祖父に親近感を覚えるのだ。


>>つづく

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