これまで脳の話もしてきたが、最近、私が気に入っているのは受動意識仮説という仮説である。この仮説によると、脳はまず先に意識決定を行い、人間が自意識、自我と認識しているものは、事前に決定されたことを記憶しストーリー化して記憶を強化する、ただの記録係でしかないのではないかというのだ。

私はADD傾向がもたらす欠陥を克服するために、自制を阻む思考を遺伝的欠陥で自分の人生を貶める悪しきもの、先祖の呪いであると考えることで、自分の思考を客観視する習慣を身につけた。

ある瞑想の本にも、自分の中に浮かんできたネガティブな感情を観察して、一つ一つ葉っぱの上に乗せて川に流すことをイメージしてみようといった話を読んだことがある。気付かずに私は瞑想に近いことをしていたのかもしれない。このようなきれいなやり方ではなかったが。

いずれにせよ、自分の感情を客観視したり、脳科学の本を読んでいると、受動意識のような仮説も現実味を持って受け入れられるし、自我など幻想に過ぎないと思うのだ。そして仏教の無我論とシンクロする。

しかしこれは私が近代的教育を受けているからだ。中学生くらいには脳が思考を生み出すということを知っていたはずだから、受動意識仮説のような考えも受け入れられるし、自我は幻想だという考えも受け入れられる。

しかし、ブッダが生まれた2000年前の教育レベルで、自我は幻想であるということを理解するのは常人には不可能なことのように思える。それを理解し得たブッダは紛れもなく天才だと思う。ただその上で疑問に思ったのは自我が幻想であるという理解は、道徳心につながるだろうかということだ。

私は自我は幻想であると思うようになってから、他人に認められたい、理解されたいという気持ちも薄れていき心が楽になった。ブッダが死の恐怖から逃れられたのも、死にたくない、悟りたいといった自己執着こそが苦しみの原因だと悟ったからだろう。

しかし私は自己執着が薄れると同時に、共感を求めてくる話、自己承認からくる自分を大きく見せようとする言動、自分を主役とした人生の物語化といった話を心底くだらなく思えるようになり、今まで以上に他人と距離をおくようになった。

無我を意識するようになってから、自己執着だけでなく他人に対する興味も薄れていき、人間味が失われていっていく気もした。仏教の無常や無我の世界観は他人や社会を思いやる道徳心につながるだろうか?

この疑問について私は母親が脳梗塞を起こした時に答えを得た。救急車を呼んだ時、10分足らずで家にまで来てくれ、入院、治療、その後のリハビリまで、想像を超えたレベルでライフラインが整備されていることに私は感心したのだ。おかげで私は母親が入院中もそれほど負担なく仕事を続けることができた。

退院後も病院の紹介、相談に乗ってくれるケアワーカーがつくようになっているし、デイサービスの利用など、今も社会保障の制度によって助けられている。そこで働いている人たちも仕事ではあるが親身に相談に乗ってくれる人もいるし、仕事の範囲外の対応をしてくれた人もいる。

このような社会制度は元からあったものではない。人権などろくにないような時代を経て、先人たちが営々と築き上げてきたのだ。何世代にも渡る人々の道徳の積み重ねによって、今の社会は成り立っている。それに気づいた時、やはり自分本位であってはならない、私もまた社会に還元しなければならないと、共感力の低い私ですら先人に感謝の念を抱き、道徳的な感情が芽生えるのだ。

私がこのような認識ができるのは、前提として過去と現在は環境が違うという認識があるからだ。世の中は移り変わっていくという認識があるからだ。だから現代の社会制度が世代を超えた人々の善意によって成り立っていると認識できる。そして自分だけで物事が成り立っているのではなく、色々なものの関係の中で自分があるという認識があるから、今の環境に感謝の念を抱くことができる。

無常と無我という世界観が私にこのような道徳心をもたらしているのだ。もし近代的な教育を受けずに呪術的思考にとらわれ、今の状態がずっと続いているもの、自分の存在は魂のような絶対的・永続的なものと考えていたら、自分中心に世界を捉え、このような形で道徳心を抱くことはできなかっただろう。

>>つづく