息子に兄が自殺した拳銃を渡した親、息子を軍隊式の寄宿学校に入れた親。著者の彼らに対する分析は、私が感じたこととほとんど同じだったが、精神科医としてこのような人間を何人も見てきただけあり、的確な分析を書き記している。 

彼らは正反対の感情を隠すために愛を装うのだと言う。最終的に息子を軍隊式の宿舎に厄介払いした親は、息子に愛情などないが、息子のことを心配していることを装い面談に来た。彼らはそうやって他人を騙すだけでなく、自分自身をも騙そうとしている。それは自分の邪悪性を認めないためだと言う。

著者は二度目の面接で、今は息子さんは学校に残りたがっているとこの両親に伝えた。しかし、その後、彼らは手紙で「先生の言葉に従い、矯正のために軍隊式の宿舎に入れた」と伝えてきた。彼らがそう書いた時、本当に私の言葉に従ったと信じ込んでいたのではないかと著者は分析する。息子を家から追い出す事を正当化する記憶の捻じ曲げは無意識に行われたのかもしれない。

彼らは見せかけの善人の皮が破れて、自分の邪悪性がさらけ出されるのを恐れている。自分の邪悪性と向き合うことを恐れている。ゆえに善人のように振る舞おうとし、自身が善人であると信じようとするのだと著者は分析する。

以下は著者の言葉の引用である。

「イメージ」「外見」「外向け」といった言葉が、邪悪な人たちの道徳性を理解する上で重要なものとなる。彼らには善人たらんとする動機はないように思われるが、しかし、善人であるかのように見られることを強烈に望んでいるのである。彼らにとって「善」とは、まったく見せかけのレベルにとどまっている。これはとりもなおさず虚偽であり、私が彼らを「虚偽の人々」と呼ぶゆえんもここにある。

虚偽とは、実際には、他人をあざむくよりも自分自身をあざむくことである。彼らは、自己批判や自責の念といったものに耐えることができないし、また、耐えようともしない。彼らは慎み深さをもって暮らしているが、その慎み深さは、自分自身を正しい者として映すための鏡として維持されているものである。

この素晴らしい分析と表現力に、私はただ唸るしかなかった。「的確に私の父親のことを表しているなあ!」と。そして夫婦仲が悪く、子供にも愛情がないにもかかわらず、父親が離婚しなかった理由も理解できたのだ。

私が長年父親の本性、邪悪性を見抜けなかったのも無理はない。その邪悪性を覆い隠すための虚偽によって自分自身をも騙しているからだ。父親も彼ら同様に虚偽の人なのだ。