2018年07月

怒りを習慣にすることで集中力を高める方法は、目の前のことに集中することはできるが、人の意見を聞き、客観的な視点で物事を考えることは難しい。怒りをコントロールし冷静な判断ができるようになる方法はないかと考えた。わかっているのにできない脳では、薬やサプリメントの投与で良くなった話が出てくるが、そういうものに頼りたくはなかった。

まずはイライラすることを考えないように努力したり、怒りをコントロールするような本を読んだりして気持ちを鎮めようとした。しかし、そうするとやはり集中力が落ちてしまい調子がでないのだ。怒りを抑えることを続けていると、元の役立たずの自分に戻ってしまうような危機感も覚えた。

将来的にはうまくコントロールできるようになるかもしれないが、今は怒りはエネルギーとして必要だと認めるしかなかった。そのエネルギーを目の前の仕事にぶつけて集中することは悪くない。問題はそれが人に向かってしまい感情的になり冷静な判断ができなくなることだ。どうすれば人に向かわないようにできるか?と考え抜いた。

自分を焚きつける怒りの中に、先述した父親および親族が信仰している祈祷師のお告げで、私の進路を決めようとしたことがあった。私はこのことを10年近くたった当時も思い出し腹立たしく思っていた。もし社会に出て自分が目標を叶えられなかったり失敗したら、あの祈祷師や父親に「お告げに従わなかったからバチが当たった」と言われても反論できないぞ、と自分を焚き付けたりしていた。実際にそれは自分のやる気を増大させ、能力開花させるのに貢献した。

そして私はひらめいたのだ。この祈祷師は一度も会ったことがないし、今後も会うこともないだろう。また彼らが信仰している神様、先祖の魂という概念には実体がない。なら、怒りの対象をすべて「これら」にしてしまえばよい。そして私はこう考えることにしたのだ。

私は子供の頃からこの欠陥に苦しめられてきた。今も行き詰まりの原因になっている。これは遺伝的なもので、生まれながらの先祖の呪いのようなものだ。頭の中に浮かんでくるようになった排他的な思考も、閉鎖的な村社会の中にいた先祖の意思の名残で呪いである。ソフトウェアで例えるならバグだ。私はこのバグを除去しなければならない。

このバグを除去すれば私の脳は正常に働くようになり、さらに能力を伸ばせるはずだ。うまくいかないことは全て先祖の呪いのせいだ。この呪いに打ち勝てば、私は望む人生を送れるようになる。先祖が呪いで私の行く手を阻むなら、先祖の魂を踏み潰すつもりで前に進め!

このように焚き付けたのである。もともと私は信心のない人間で、この頃には魂やあの世の存在も信じてはいなかったが、あえてそう思いこむようにしたのである。これは単に感情に任せてそうしたのではなく、私なりに欠陥を克服するための理屈があった。

まずは実体のないものを怒りの対象として一点集中することで、今までどおり集中力を維持しつつ、人に怒りが向かわなくなるのではということ。信心のある父親及び親族とは真逆の思考を続けることで、脳のパターンが遺伝的に決定付けられたものと異なるパターンへ矯正され、それが良い方向に働くのではないかと思ったのだ。

当時の私はこの考えをとても良いアイデアだと思ったが、今冷静に振り返ると異様な考えであると自覚する。普通の人間は思いつきもしないことだろうし、信心がある人にはぞっとするものだろう。だが、これこそが私が抱えるサイコパス傾向なのだ。

一応言っておくと、今は先祖から引き継いだ遺伝的傾向が何もかもが悪いものだとは思っていない。例えば父も祖父も技術職の才能があり、それは私にも引き継がれている。サイコパス傾向もコントロールできれば社会生活を送る上で優位に働く才能にもなると考えている。また過集中と火の輪型ADD傾向は父型の遺伝であるが、不注意型ADDの傾向は母方の遺伝のように思うのだ。

話を戻す。怒りの感情はこれでコントロールできるかもしれないが、それだけでは能力を伸ばすのに不十分だとも思った。特定の考えにとらわれ偏見を持ちやすい思考も直さなければ、正しい判断と決断を下せない。そして思考の偏りを防ぐ本を探していたところ、クリティカルシンキングの本を見つけた。

今ではクリティカルシンキングの本も目にしやすいが当時は珍しかった。人間が抱きやすいさまざまな偏見とそれらを客観視するための思考を促す内容で、この本も当時の私に深く響いた。そして根拠なく頭に浮かんできた考えを「本当に正しいか?」と疑う習慣を身につけるようにした。

またADDの本を読むまで、あまり自覚していなかったが、共感力が低く人の感情を読み取る能力も低いことも自覚した。学生の時に読書感想文を書こうとしても感想が浮かばなず苦労したのもそのせいだ。また、みなが聞くような音楽、歌を聞いても何の感情もわかず、むしろわずらわしい雑音のように感じていた。音楽への興味の無さも共感力が低いことが原因だろう。

共感力が低く人の感情を読み取れないと仕事での交渉もうまくできないままだ。しかし人と同じように感じられないことを同じように感じるようになろうにも、どうすればいいのかわからなかった。そこで私は人の感情をソフトウェアのプログラミングと同じように捉えてはどうかと考えた。プログラミングは、Aの時Bする、Cの時Dするというように、起こりうる事象とその対応処理を延々と組み上げていく。人とのやり取りもそれと同じように捉えればよいのではと考えたのだ。

共感はできなくとも人々の観察を続ければ、普通の人はこういう時はこう考えるというパターンは覚えられるはずだ。また人々の性格を大枠で分類して覚え、それぞれの性格に対して有効な対応パターンを覚えれば良い。それができれば交渉もうまくできるようになるはずだと考えた。ずっと後にサイコパスの本を読んでわかったことだが、これはまさにサイコパスがコミュニケーション能力を身につける方法だった。

当時、読んだ脳に関する本の中で、もっとも印象に残ったのが「わかっているのにできない脳」という本である。(今は廃版になっておりAmazonで中古本として買えるかどうかである。)




私はこの本の中でADD(注意欠陥障害)という言葉を初めて知る。今でこそADHD(注意欠陥多動性障害)、アスペルガー症候群と共に一般にも知られるが、この当時(2000年頃)はそれほど知られていなかったと思う。この本の中でADD患者の脳内の血流や活動レベルを観察し、脳のタイプを6つにタイプ分けして説明していた。

その中でまず目に留まったのは、不注意型ADDというタイプである。空想にふけ、ぼんやりしていることが多く、集中しなければならない時にうまく集中できない。脳のスキャンでも集中時に活動低下が見られる。頭が悪いわけではないのに不注意によるミスが多く実力を発揮できない。多弁、多動で注意散漫な他のADDタイプと違い、静かに気が散るタイプということである。

この特徴は中学生くらいまでの私によく当てはまっていた。授業で先生の話を集中して聞こうとすると、頭がボーッとしてしまう。やるべきことがあるのに空想にふけ、遅れたり忘れたりする。先生が手本で見せた回れ右という単純な動作をうまくできず、一人だけ何度もやらされる。活動的でなく人からもボーっとしていると言われることもよくあった。

次に当てはまると思ったのは過集中型ADDというタイプである。同じ考えに囚われる、思考の柔軟性がない、同じことを何度も考えたり、嫌な出来事を繰り返し考える、議論好き。これらの特徴は、子供の頃はなかったが、この本を読んだ20代中盤当時の私によく当てはまっていた。つまり怒りで集中力を上げる方法を身に着けてからの私である。

ただし過集中の特徴は私にはそれほど悪いもののように思えなかった。本の中では、ある事に執着して本来やるべきことに手を付けられない。何度も手を洗うなど強迫観念症になる。悪い行動を自制できずに犯罪を犯す。アルコールや薬物依存になる。といった悪い面にスポットを当てていたが、几帳面で一度取り掛かったことは最後までやらないと気がすまないという長所にもなりうる面も書いてあった。

私の場合この長所が強く働いたと思う。仕事で必要な能力を身につけるために過集中が向かい、能力開花することができ社会に適合できた。腹の立つ出来事を何年経っても繰り返し考えることがあったが、それらの怒りは勉強や仕事に過集中するための燃料になった。

最後の6つ目のタイプとして紹介され、目に止まったのは火の輪型タイプである。スキャンで見ると脳の活動部分が脳をとりまく輪のように見られるという。脳全体が過剰に活動を行い、感情の抑制が効きにくく、怒りっぽく、不機嫌、反抗的で最も困難なタイプだと評されていた。

このタイプは怒りがコントロールできなくなる時の私の症状に当てはまっていた。思考が止まらなくなり、話を止められない、ささいなことで腹を立てる。ひどい時は頭の中で思考がめまぐるしく駆け巡り、脳の中がバチバチとはじけるような感覚、鼓膜の圧迫感、後頭部の痛み、叫びたくなるようなこともあった。

またADDの人は、もともと脳の活動レベルが低いために、腹の立つことや嫌なことを考え、怒りや恐怖の感情で脳を刺激して活動のレベルを上げる習慣を持つ人が多いという話もあった。これも当時の私にぴったりと当てはまることだった。私は子供の頃からずっとボーッとしてうまく頭が働かないような感覚があった。それが20歳頃に怒りが集中力を異常に増大させる事を「発見」し、以来頭にくることを考えることを「習慣化」することで集中力を高めるようにしてきた。その過程で不注意型ADDから過集中型ADDへ移行し、さらには火輪型ADDの傾向も発症しているように思えたのだ。

この本以外にもADD、ADHD、アスペルガー症候群の本を読むと、私にあてはまるようなことはいくつもあった。「わかっているできない脳」は、学校や社会生活をうまく送れなくなっている人々にスポットを当てていたが、そればかりでない本もあった。人から教えてもらうより主体的な体験による学びを好み、興味をもったことはとことんやる、それにより才能開花する人もいるというポジティブな話もあった。まさに私もそのように独学で能力開花させたのだ。

私は病院で検査を受けたりはしていないし、ADDと診断されるかはわからない。実際、社会生活を送れていることから、ADDだったとしても軽度な部類であろう。そもそも、それらの定義もサイコパスと同じで、明確な基準はなく症状の程度や傾向には個人差があるものだ。だから最初に私は単にサイコパスと呼ぶより、サイコパス傾向があるという表現を使いたいと書いた。ADDについてもADD傾向があると言いたい。

それに私の場合「わかっているのにできない脳」で示されている6つのタイプどれか1つにだけ当てはまるのではなく、複数のパターンに部分部分またがって当てはまるし年齢と共に変化も見られる。それにアルコール、薬物依存などは当てはまらない。

いずれにせよ、複数の本を読んで、私にはADD傾向があると確信した。また親族にも同様の傾向があるし、遺伝的要因が大きいという話も納得できた。そして「やっぱり自分は普通の人とは違う。思ったとおりこの欠陥は遺伝的なものだった!」と救われた気持ちになった。欠陥があると知って救われる気持ちになるのは不思議に思うかも知れないが、すでにこの欠陥は専門家に認識されており、同じ症状を持つのは私だけではないことに救いを覚えたのだ。

それどころか希望を抱くことすらできた。なぜなら、後に天才、偉人として名を残した人の多くも、このような傾向があったというからだ。空想にふける中で画期的なアイデアを生み出す。異常な集中力と執着で革命的な発明をする。ADD傾向は類まれな才能開花につながる形質でもあるのだ。私も天才とまではいかなくとも、特定の分野で人並み以上の能力を開花できた。

欠陥の理由がわかれば解決する方法も探ることができるはずだ。そしてこの欠陥を克服すれば、まだ能力を伸ばせる可能性があると考えた。能力に対する執着のおかげで私は希望を抱くことができたのだ。

余談であるが、わかっているできない脳の著者は、この本の中にもあるSPECTスキャンによる脳の診断は立証されていない主張であると批判も多く受けているらしい。ただ今、改めて読み直してみても、ADD傾向のある私にはしっくりくることは非常に多い。確かに2018年現在から15年以上も前に出版された本であるし、今となっては正しくない部分もあるのだろう。それでも私はこの本に救われた。Amazonのレビューにもこの本に救われたと書いている人もいるし、他にも救われた人はいるだろう。私はそれまでADDという言葉すら知らなかった。タイトルの「わかっているのにできない脳」というネーミングも良かったと思う。私がまさにそのように感じていたからこそ、本屋で目に留まり手に取ることができたのだ。



>>つづく



↑このページのトップヘ