2018年09月

しかし改めて不思議なのは、私も父親ほどでないにせよ、共感力が低いにもかかわらず、なぜ呪術的思考が残らなかったのだろうか。それどころか呪術的思考に強い嫌悪感を持つまでになっている。妹も呪術的思考があるし、私が彼らとここまで対極になってしまったのはなぜだろうか。

まず考えられるのは母型の遺伝である。母親は両親が貧しかったため中学の頃に遠方に住んでいた義理の姉に預けられた。この遠方の地が私が生まれた地である。そして今も同じ県内で私と母親は暮らしている。義理の姉の墓も近くにあり、母親の両親(私の祖父母)の遺骨も収められている。義理の姉は自分が亡くなる前に自分の墓を用意し、彼らの遺骨もわざわざ遠方から持ってきたらしい。

しかしこれは改めて考えると不可解な話なのだ。なぜなら私の母親には兄と姉がおり、彼らは両親が亡くなった時も彼らの近くに住んでいたらしい。なら彼らが自分の親の墓を建てるのが常識ではないか。母親にその理由を聞いても明確な答えは得られない。貧乏だからそんな事を考える暇はなかったのではないかというのだ。しかしいくらなんでも自分の親の遺骨を血縁者でない遠方の人間に渡すだろうか?

母親に話を聞く限りの推測であるが、どうも母親の兄と姉も母親同様に刹那的な人間のようなのだ。姉は60歳という若さで亡くなっている。私も死の直前に会ったが、寝たきりでほとんど口が聞けず、もっと高齢に見えた。母親いわくお酒の飲みすぎだろうということだ。兄にいたっては蒸発し生きているかどうかもわからない。こういう面を知っていた義理の姉が、彼らではきちんと墓守はできないと判断したのではないか。

そもそも母親の祖父母の墓はどうなっていたのだろう。ネットで検索すると出てくる話だが、もともと墓を建てる習慣があったのは武家階級の者くらいで、庶民も墓を建てるようになったのは江戸時代後期からで、一般的になったのは昭和30年くらいかららしい。

母親に聞いても祖父や祖母の墓参りの記憶はなく、もともと墓自体なかったのではないだろうか。よって墓守の習慣がない母親の兄弟は、自分の親の墓を建てることに無頓着だったのかもしれない。私の信心の無さはこのような母型の遺伝的影響ではないだろうか。

とはいえ、私の感覚からしても親の墓を建てないのはありえないことだが。信心のかけらもない私ですら母親が亡くなったら墓は建てるつもりだし、その際に義理の姉や母親の両親の遺骨も一緒にいれるつもりだ。あの世や魂の存在を信じなくとも、母親を弔う場はあるべきだと思うし、母親の面倒を見て私のこともかわいがっていた義理の姉の遺骨も一緒に入れてあげたいと思うのだ。

私の信心のなさに話を戻すと、母親も信心は厚くないが困った時の神頼みくらいはする。しかし私は信心がないにとどまらず、それを強く嫌悪するようにまでになった。きっかけは父親が信仰する祈祷師のお告げで私の進路に口出ししたことで、そこで一気に針が振り切れ宗教的なもの全般に強い嫌悪感を抱くようになった。なぜ、そこまでの嫌悪感が湧いたのだろう。

これも脳の覚醒レベルが低い状態から、不快な感情や怒りで覚醒しようとするADDやサイコパスの形質と関係しているのかもしれない。それまでも父親や親族のバチが当たる、狐が憑いたなどの呪術的思考に不快な印象を抱いていたが、それを私の人生に適用しようとしたことで脳に着火し、脳は自身を覚醒させるための燃料として、宗教的なもの、呪術的思考を常時嫌悪する選択をしたのかもしれない。私の意識とは関係なく。

つまり不快さや怒りを脳の覚醒燃料とすることは父親から遺伝したが信心深さについては遺伝せず、母型の信心の無さの方が遺伝したことによって、偶然このような呪術的思考を嫌悪する人格が形成されたということかもしれない。

また「平気でうそをつく人たち」で紹介されている強迫観念症にとらわれた男の悪魔契約の思考は私と似ているような気もする。彼は悪魔の存在を信じていないと言いながら、頭の中で悪魔と疑似契約し、自分と子供の魂と引き換えに強迫観念症を克服しようとした。

私も先祖の呪いなど信じていないが、私の遺伝的欠陥は先祖の呪いで、その呪いに勝たなければならないと思い込むことで欠陥を克服しようとした。もしかするとこれは私の歪んだ呪術的思考なのかもしれない。信心の無さによって呪術的思考が先祖の呪いを呪うといった形で現れたのかもしれない。

>>つづく

私が共感力の低さと呪術的思考は相関しているという確信を強めることになったのは、別のサイコパスの本「良心を持たない人たち」の中にある道徳実験の話である。アメリカの心理学者が1960年代に、ハインツのジレンマという話を用いて、子供たちの道徳的成長を記録したらしい。

良心をもたない人たち (草思社文庫)
マーサ スタウト
草思社
2012-10-04


ハインツのジレンマについて簡単に説明すると、このようなものである。
  • ハインツの妻はがんで死にかけていた
  • そのがんを救う唯一の薬を同じ街に住む薬剤師が開発していた
  • その薬剤師は調合にかかった費用の10倍の値段で薬を売っていた
  • ハインツは知り合いに頼んでお金を集めたが、その薬を買う金額を集められなかった
  • ハインツは薬剤師に薬を安くしてくれないか、後払いにしてくれないかと頼んだ
  • しかし薬剤師はこの薬で一儲けするつもりだからと拒んだ
  • ハインツは妻を助けたいから、薬剤師の店に押し入って薬を盗んだ
そしてハインツがしたことは正しいか?という問いを異なる年齢の子供にして反応の違いを調べたのだ。

すると7〜10歳くらいの子供の典型的回答は「ハインツはそんなことをすべきではありませんでした。しかられるからです」だったという。これはこの年頃の子供は、まだ登場人物の関係が理解できず、親からのしつけに習い「盗みは怒られるような悪いこと」という理解にとどまっているからだろう。ただしこれは1960年代の子供の話で、現在の子供はこの年頃でももっと多様な答えをだすように思える。

いずれにせよ、人は成長するに従って、この話について道徳的考察が入るようになる。登場人物の相関関係を理解し、薬剤師は人助けより私腹を肥そうとしていること、ハインツは愛する妻を助けたい一心で盗みを働いたこと、それらを考慮してハインツが正しかったかどうかを判断する。

ハインツに同情しこの罪は許されるべきだと思うかもしれないし、やはり社会秩序のために盗みはよくない、薬剤師を法的に訴えることもできたのではないかなど、人によって意見が分かれるようになる。だがどんな答えを出すにしても、大人ならほとんどはハインツが全面的に悪いとは考えないだろうし、まして「しかられるから」いけないことだとは答えないだろう。

単に怒られるから盗みはだめだという段階から、道徳的考察ができるようになるための重要な要素は共感力であろう。人は成長するごとに家庭外の環境から刺激を受けるようになる。社会での他者との関わり合いから共感を通じて道徳を身につける。

この実験で7〜10歳の子供は、盗みを働いてはいけないのは罰を受けるからという理解にとどまっており、盗みと受けるべき罰について論理的な回答はできない。論理的な回答をしようとするなら間に道徳的考察が入るはずだ。

この論理的な関連性を見出さずに原因と結果をひもづける思考は、呪術的思考と似たようなものである。ルールや儀式に従わないと罰を受けると信じることは呪術的思考によくあることだ。また幼児に「なぜ人のものを盗んだらいけないの?」と聞かれたとき、「神様が罰を与え良くないことが起きるからだよ」のように幼児の呪術的思考を利用してしつけを行うこともよくあるだろう。

成長とともに呪術的思考が薄れてもほとんどの人は盗みを働かない。それは罰を受けるからではなく道徳心からだ。つまり呪術的思考は道徳的思考に上書きされる形で薄れていくものではないか。逆に共感力が低いと道徳心が身につきにくく呪術的思考が上書きされにくいのではないか。

またこれまで述べてきたように共感力の低さ(サイコパス傾向)が遺伝的なものなら、大人になってから呪術的思考を引きずるのも遺伝的なものとなるだろう。そしてサイコパスが呪術的思考による信心深さを持つことも不思議ではなくなる。

私の父親は周囲の人々が子供の人生を含めて人生設計しているにもかかわらずそうせず、無年金、持ち家なしで老後を迎え税金も滞納していた。にもかかわらず、几帳面に部屋の整理整頓、神棚の手入れをし先祖の墓参りに欠かさず行く。この矛盾行動の原因は、父親の共感力が極めて低く周囲の人間と同じように道徳心を身に着けられず、呪術的思考が強く残ったからだ。

また部屋は放って置くと自然と散らかり汚れていくものだ。ADD、サイコパス傾向があると脳の覚醒レベルが低くなりがちなので、不快な感情を燃料に覚醒レベルを上げる傾向がある。何もしないと汚れていく部屋は日常的に燃料を得られる格好の材料なのだ。

だから父親は道徳心が低くとも掃除や整理整頓を几帳面にやるし、むしろ道徳よりも優先する。また整理整頓はしきたりや儀式行為ともひもづきやすい。だから道徳心が低いにも関わらず神棚の供え物や墓参りも欠かさずに行う。

平気でうそをつく人たちの著者が言う子供時代に親から正しい扱いを受けないと呪術的思考が残るという見解よりも、こう考える方が私は腑に落ちるのだ。

>>つづく

「平気でうそをつく人たち」の強迫観念症になった男性は、臆病であるがゆえに呪術的思考に逃げる傾向が強く、逃げ続けた結果、呪術的思考に精神を支配されてしまった。しかしその原因は臆病さだけではないように私は思う。

彼は多弁で一方的に自分の話ばかりするし、強迫観念も含めてADDの傾向が見られる。ADD傾向があるゆえに人より共感力が低く、家族仲が悪くなった理由の1つもそれではないだろうか。呪術的思考にとらわれることと共感力の低さには何か相関があるのではないだろうか。

それをさらに感じるのがこの本で最後に紹介されている女性患者である。彼女は極端な共感力の低さと強い呪術的思考を併せ持つ。そして著者が治療に失敗した患者でもある。

彼女は失恋後のうつ状態を訴えて著者の元に訪れた。しかし著者には重症には見えなかった。知性は高いように見え、後に受けたIQテストでも高い値を示したらしい。にもかかわらず、平凡な大学で落第を繰り返し、仕事を解雇されることもあり何度も仕事を変えている。

ある日、著者が彼女から診療費の小切手を受け取った時、銀行が変わっていることに気づいた。そのことを彼女に話すと、前の銀行の小切手はいくつかのデザインがあり毎回違うものを使っていた。しかしすべてのデザインを使ってしまった。銀行を変えたのは新しいデザインの小切手を使いたいからだという。

なぜ毎回違ったデザインのものにする必要があるのかと聞くと、「愛の霊気の問題」なのだと言う。毎回、その時その人にどういうデザインが合うか考えて使いたい、同じ人に毎回同じデザインのものを使うのは嫌だと言う。まさに呪術的思考による儀式行為である。そして彼女の行動のほとんどが何らかの儀式にひもづいていたという。

彼女が能力以下の結果しか出せないのは、独自の儀式行為に従ったり自分勝手な方法で物事を進め、周囲を混乱させたり怒らせるからだった。しかし彼女はそれを気にもとめない。しばらく無職の期間があってから新しい仕事に就く時、著者が不安はないかと聞くと、まったくないと答えるのだ。やり方はわかっていると。解雇されるのはみんなが意地悪だからだと。自分に非があるとは全く思わないし、たとえ解雇されても落ち込むこともない。著しい共感力の低さゆえだろう。

やがて彼女は著者に先生のことを愛しているといい、体の関係を要求するようになる。著者は拒みつつ内面にかかえているものを打ち明けるように言うが、彼女は話をはぐらかし事あるごとに体の関係を要求し、治療の話もまったくかみあわない。そしてストーカー行為も働くようになる。

彼女は診療の最後の最後に一度だけ著者の言うことに従った。著者がようやくこれで治療を進められると思ったが、「先生は私を助けてくれない人だ」と言い、以来、顔を出さなくなったそうだ。

著者は彼女の両親が子供に関心がなく、それが原因で子供の時に満たされなかった愛を求めるようになったなどの分析をしているが、私にはしっくりこない。もっと単純な話で共感力が極めて低いために、人の感情や世間の常識がわからず、自分勝手な行動を取っていただけではないか。

この著者は優れた洞察力があると思うが、善と悪については宗教的な話を交え、人間の悪は科学では証明できないといった話もしている。しかし、これは間違いであると思う。彼がこの本で「邪悪な人」として紹介している人々は、現代心理学ではサイコパスと呼ばれる人々であり、これまで述べたように脳の活動のレベルで普通の人と異なり、遺伝的要因が大きいとされている。つまり彼の言う道徳欠落の邪悪性は科学で分析、証明できるものだ。

またこの著者は邪悪な人(サイコパス)が、呪術的思考にとらわれる傾向があるのは、子供時代に親から正しい扱いを受けなかったことが大きいと分析している。通常、幼児の頃は呪術的な考えをする(私ですらそうだった)。しかし、親が極端に几帳面でそれを強要したり、子供に関心を示さない親だったりして、子供の頃に何らか精神的外傷を受けると、呪術的思考の階段を抜け出せないこと多いと言う。

この分析は一見説得力があり、私の父親にも当てはまりそうな話である。祖父も几帳面な性格だったようで、父親も厳しくしつけられたようだし、子供に愛情を示すようなことも少なかったのだと思う。そういった子供時代の体験のせいで父親は呪術的思考を引きずるようになったのだろうか?

しかし、これは私と妹に照らし合わせると全く当てはまらない。父親は祖父に厳しくしつけられたが、整理整頓や神棚、仏壇に手を合わせるような宗教儀式を自分はやっても私達子供に強要するようなことはしなかった。にもかかわらず、妹には父親と似たような呪術的思考があり、逆に私はその思考を激しく嫌悪している。知らないところで妹だけが父親に宗教的しつけを受けていたということはないはずだ。

つまり、この事から呪術的思考を大人になっても引きずるかどうかは遺伝的なもので、私はそれを父から引き継がず、妹は引き継いだということだと思うのだ。平気でうそをつく人たちの悪魔と契約した男性、儀式行為のある女性どちらも親が宗教に過剰にはまる人間だったし、彼らの呪術的思考の引きずりも遺伝的な要因が大きいのではないだろうか。

>>つづく

以前に「平気でうそをつく人たち」の中に出てくる邪悪な親を紹介した。この親は息子が障害者ボランティア活動の代表として選ばれた会議に「部屋の片付け」ができていないという理由で行かせなかった。「障害者とかかわるのがよいことかわからない」という話もしており、読者の多くは障害者への偏見から部屋の片付けを理由にして行かせなかったと考えるかもしれない。しかし、私は彼らはボランティアという道徳的な行いよりも部屋の片付けの方が大事だと本気で考えているのだと思う。私の父親とよく似た思考だからだ。

理性と観察から因果関係が認められないことに因果関係を見出す思考を心理学などでは呪術的思考と呼ぶ。例えば、茶柱が立つといいことが起きるといった迷信を信じる。喧嘩した友達が痛い目にあえばいいと思ったら実際に怪我をし、それを自分のせいだと感じる(子供によくある思考だ)。ある儀式行為をすると物事がうまくいくと考える(ジンクス)といった思考である。

これら呪術的思考に強くとらわれる傾向が一部のサイコパスにはあるようなのだ。「平気でうそをつく人たち」の中では、そのような二人の人物を紹介しており、この思考が何によってもたらされているかを考えるヒントを得られる。

まずは強迫観念症にかかった男の話である。彼は狂信的な母親をもち教会に反発心があったが、夫婦旅行で訪れた教会では気まぐれに寄進箱(賽銭箱のようなもの)に55セントを入れた。すると「お前は55歳で死ぬ」と声が聞こえてきた。以来、車に乗っている最中、ことあるごとにお前は死ぬという声が聞こえるようになり、「お前はあることをすると死ぬ」という声に支配されるようになる。

彼はその声が聞こえる度に恐怖を感じるが、そんなわけはないと実際にそれをやってみる。するとやはり声のとおりのことは起きない。そしてしばらく安心するが、また別の何かをすると死ぬという声が聞こえ、安心のためにそれやって何も起きないことを確認する。それを繰り返す日々になり睡眠もろくにとれなくなり病んでいった。

そして精神科医の著者の元を訪れる。著者は典型的な強迫観念症と診断した。著者との面談の会話を読むと、彼はかなり几帳面で、心配性、神経質な性格である。子供の成績、歯の矯正から、家のペンキをいつ塗り替えるべきかまで、日常のあらゆることを気にしている。また少年期に毎日ある石に触れないと好きだった祖母が死ぬと思い込み、1年くらいそうにしていたこともあったらしい。

彼の父親は統合失調症で、飼っていた猫が部屋を汚したことに腹を立てほうきで殴り続けて殺したこともあったらしい。母親は狂信的で教会にかかさず通わせたそうだ。心臓発作に襲われた牧師の回復を願うよう、彼は一晩寝ずにひざまづいて祈ることを強制されたこともあった。

母親の狂信的行為も強迫観念症だったと思われる。著者は明言していないが、夫の病気と関係していそうだ。なぜなら息子である彼が大学生になると教会通いを無理強いしなくなっており、それは父親が亡くなった時期と一致する。つまり母親は夫の病気から目をそらすために宗教にのめり込み、夫が亡くなるとそれは止んだのではないか。

そして彼の強迫観念性も母親と同じく本当の問題から目をそらすことだった。彼は最初の面談では、誰にでもあるような問題はあるが安定した家庭で夫婦生活はうまくいっていると言った。しかし面談を重ねると、彼が最初言っていたよりも家庭の状況は悪いとわかる。

嫁を自己中心的で協力的でないと腹を立てており、嫁と面談すると彼のことをメソメソした男だと嫌悪していた。そして彼女自信もひどい抑うつ状態にあるとわかった。長女と長男も父親である彼のことをうとんじていた。彼が家族の中でつながりをもつのは末っ子だけで、その子を溺愛していた。

つまり彼の主な問題は家庭がうまくいっていないことだった。しかし、最初の面談では大きな問題でないように言いごまかした。著者は彼の強迫観念性は本当の問題から目そらし、あたかも解決不能な別の問題があるように思い込むことから来ていると診断した。そして本当の問題に向き合わない限り、強迫観念症は治らないことを彼に伝えた。

しかし彼は自分の本当の問題に向き合おうとしない。にもかかわらず、ある日突然、急に症状が良くなり、あの声が聞こえなくなった、たまに聞こえてきても無視できるようになったと言うのだ。著者は根本の問題が解決していないのに症状が良くなったことを不可解に思った。

そして彼はその理由を語った。なんと悪魔と契約したというのだ。悪魔の存在なんか本当は信じていないですよと言いつつ、悪魔と契約をしたと思い込むようにしたのだと。その契約は、聞こえてくる声に従ったら悪魔が自分を殺すというものだった。彼は悪魔に殺されるのが嫌だから声に従わなくなったのだ。

さらにはである。本当は信じていない悪魔と契約したと考えるだけでは効果が薄い。だから、契約を破ったら自分だけでなく溺愛している末っ子も一緒に悪魔に殺されてしまうと思い込むようにしたと言うのだ。

それを聞いた著者はあなたの問題は弱さだと告げる。問題から逃げるためならいつも楽な方法を取る。不道徳、邪悪なものにすら救いを求めようとする。自分の魂を売ったり子供を犠牲にすることさえする。ただ罪の意識を感じていることは救いだ。不遇な子供時代、みじめな結婚生活、自分の臆病さに面と向かうなら私はあなたの手助けができる。

そういう著者の説得に彼もようやく考えを改め問題に向き合うことにした。悪魔との契約に頼らなくなったため、ふたたび強迫観念に襲われるようになったが、抑うつ症の妻も治療を受け夫婦関係は改善した。彼の強迫観念も少しずつ改善し2年をかけて治療を終了したという。

>>つづく

父親、妹と私が最も異なる傾向が、信心深さのあるなしである。これまで述べてきたように私には信心深さが皆無といっていいほどにない。しかし父親と妹は信心深さのようなものがある。それも道徳とひもづかないような得体の知れないものである。

父親は度々神棚に手を合わせ、毎月1日、15日にしきたり通り神棚の米、塩を供えることを欠かさない。そして盆暮れ正月には必ず遠方の生まれ故郷まで先祖の墓参りに行く。無年金、無貯金、持ち家なしで老後を迎え、子供が家庭を築くことも含めた人生設計を行わないにもかかわらずである。

信心にまつわること以外でも父親は几帳面である。部屋の掃除や日用品の買い出しなどは几帳面に行い、それらをきちんとしないと家の中がぐちゃぐちゃになると言う。にもかかわらず税金は滞納し年金の支払いも確認せず、老後生活は破綻した。持ち前の几帳面さは子供の人生を含めた人生設計には発揮されなかった。

このような不可解な信心深さと几帳面さは妹にも見られる。母親が脳梗塞を起こして入院した時、最初はろくに口もきけずトイレも自力で行けずおむつをしている状態だった。私は担当医からリハビリでどこまで回復するかはわからないし、このまま介護が必要になる可能性もある。また脳梗塞は再発率が高い病気だという説明を受けた。

そして妹にその病状の説明をし、退院しても脳梗塞を再発して突然亡くなることもあるかもしれないと伝えた。すると妹はこう答えたのだ。
「人の寿命は決まってるんだって」
先程書いたように妹は最初に母親の姿を見た時、ショックを受けていたし母親がいつ死んでも良いとは思っていないはずだ。私もそれを知っているから、後悔しないように会えるうちに会った方が良いという意味も含めて母親の病状を伝えているのだ。しかし妹はそういったことは伝わらず、何の脈略もないような信心にまつわるような台詞が出てくるのだ。

またこのような時期に普段は話さない妹と食事に行き話をした。話の流れで妹は認知症の母親を抱える友人の話をし始めた。ペットの餌を食べるなどの症状もあり重度の認知症だ。そして、私も介護の母親を抱えるかもしれない状況で「一人で面倒見て大変だわ」とまるで他人事のように言うのだ。さらに私の家の風呂場が汚れていて、それが気になるという話もしていた。

妹が見舞いから帰ってしばらくして、一人で日々母親の見舞いをしている私へのねぎらいの話などすることもなく、神棚や仏壇の供え物がきちんとできているかとメッセージを送ってもきた。私に信心深さがない事を気にかけてであろうが。(ちなみに単身赴任中の父親も同じタイミングで神棚にお供えものをしなさいと命令口調でメッセージを送ってきた。)

こういうことから妹も私と同じく共感力が低く、兄である私に何ら感情を持っていないことがうかがえる。そのことに関してはお互い様だが、私が理解できないのは信心、掃除、整理整頓が、道徳より優先されることだ。

そもそも父親や妹が先祖を気にかける事も矛盾を感じる。まず妹は独身であり、年齢的にもう子供を作ることはないだろう。ということは、自分が死んだらいわゆる無縁仏になるわけで、誰も自分を祀る人はいない。いわば先祖からの血のつながりを断ち切る人間である。先祖が大事だと思うならなぜ結婚して子供産み、血のつながりを維持しようとしないのだろうか。ちなみに私も独身であり結婚願望はあまりないので、そこは共通するところだが。

妹はそれで誰に迷惑をかけるわけでもないが、父親に至っては老後生活を破綻させた挙げ句、育てた恩を盾に私にすべての面倒を見させようと考える人間だ。長男の私が結婚して家庭を築く機会を奪い、先祖からの命のつながりを断つような状況を作っておきながら、先祖が大事であるかのように考える。全く理解不能な狂った思考だ。

父型の兄弟も疎遠になっている者もいるし、自己観察からも親族に対する感情が希薄な傾向は遺伝的なものだと思う。もしそうなら、我々の先祖も同じように親族への感情が希薄な傾向があったと考えられる。そんな先祖が自分を見守ってくれるように考えるのもこっけいな話だ。

そもそも自身が親族に対する感情が希薄なら、先祖のことも軽視しそうなもので、道徳心が低ければ信心深さも抱かなさそうなものだ。信心深さのない私からするとこの矛盾は不可解かつ薄気味の悪さを感じることだったが、実はこれもサイコパス傾向がある人間によく見られることのようなのだ。

>>つづく

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