カテゴリ: サイコパス分析

面談からしばらくして、少年の両親から著者宛てにこのような手紙が来たという。先日は相談に乗っていただき、心から感謝していますなど礼儀正しい言葉から始まるが、その後につづられている彼らの少年への対応は、親としてありえないようなものだった。

彼らは先生のお言葉に従い少年を「宿舎学校に入れた」と言う。確かに最初の面談では宿舎に入れたほうが良いと言ったが、二度目の面談では少年は学校のことを気に入っているし、みんなにもよくしてもらっている。今、学校を変わるのは良くないと言ったにもかかわらずである。さらに、その寄宿学校とは素行に問題がある子供の教育に「大変評判がある」という軍隊学校なのだと言う。これですべてがうまくいくものだと確信しています。いろいろありがとうございましたと綴られて手紙は終わる。なんとも嫌な気持ちにさせられる結末だった。

私はなぜこの両親がこのような行動を取ったのか、自分の父親の言動と照らし合わせることで理解できた。彼らの行動原理は、社会人としての「メンツ」を保つことなのである。そして子供はメンツを保つための「お飾り程度」の存在でしかない。子供の気持ちになって考えたり、子供の人生がよくなるよう考えたりするよりも、自分のメンツを保つことを優先して考える人間なのである。

彼らは面談の際、子供のことを心配しているかのようにふるまい、実際に面談にも来ていることから、表面上は子供のことを思う両親のように見える。しかし実際は、子供のことを考えて足を運んでいるのではないのだ。

息子が成績を落としたり、窃盗行為を行ったりして、学校から精神科医を紹介されているにも関わらず、無視して足を運ばないと「子供のことを考えない親」のように周囲から見えてしまう。それでは自分たちのメンツが潰れるから、その場に足を運ぶのだ。彼らが息子に対して憎しみの念を持っているのも、自分の思い通りにならず、あげく成績を落とし窃盗を行い、自分たちのメンツを潰したからだろう。彼らは息子がなぜそうなったかを考えるよりも、自分たちのメンツの挽回の方が大事なのである。そもそも子供の気持ちになって考えるという感情自体無いのかもしれない。

息子が心理テストを受けることを拒むのは、家の中で息子をどう扱っていたかバレてメンツが潰れることを恐れているからだろう。もしかしたら虐待をしていたのかもしれない。そして自らが心理テストを受けるようなことや治療を受けるようなことは、彼らにはもっとありえないことだ。それは自分たちに問題があると認めることでありメンツが潰れるからだ。

そして、最後の息子への仕打ちは、そのメンツを守るための集大成のようなものだ。彼らは最初に面談を受けた時に、著者に息子を宿舎に入れるように言われたがそうしなかった。その後、息子は窃盗行為を行ってしまった。彼らは著者の言うとおりにしなかったことで、より悪いことが起きメンツが潰れたと感じているのだろう。

実際には、少年が窃盗行為を起こしたのは、最初の面談後、宿舎に入れなかったことではない。その後の学校生活はうまくいっていた。そのようなことを起こしたのは、少年がボランティアの代表として会議に参加することを、彼らが認めなかったからである。しかし、そういう自分の非を認めることは、メンツが潰れることだから受け入れることはないのだ。

そして彼らは自分たちが悪いのではなく、息子自身の問題だと考えようとする。著者のあなた達にも問題がある、治療を受けたほうが良いという話に対しては、全く聞く耳を持たず、子供は生まれつきの遺伝的問題だとまで言ってのける。

彼らは上品に振る舞っていても本質的には最初に書いた自殺した拳銃を息子に与えるような父親と同じなのだ。この労働階級の父親は、労働階級で良い教育を受けていないから、そんな事はわかるわけがないと、コンプレックス混じりのメンツを保つことに躍起になり、子供の問題に向き合わなかった。社会的ステータスの高い父親との違いは、感情のコントロールが下手で子供の人生を考えない親であることがわかりやすいというだけである。

そして上手く本性を隠せる社会的ステータスが高い彼らが出した答えが、
  1. 最初の面談で著者に宿舎学校に入れた方が良いという勧めに、今度は従ったということでメンツを保ち、
  2. 自分たちの息子への扱いが悪かったからこうなったのではなく、息子自身の問題だと思うことでメンツを保ち、
  3. 素行の悪さを矯正するために軍隊学校に入れることで、言いなりにならない息子を厄介払いした
ということなのである。その中に子供の気持ちや人生を考えるといった感情はない。ただ上辺の社会人らしさを保とうとしているにすぎないのだ。実際に周囲の人に「なぜ息子さんを宿舎に入れたのですか?」と聞かれた時、彼らはこのように答えるだろう。
  1. 最初に精神科医の先生に、息子を宿舎に入れるように言われが、親元を離れて暮らすより、愛情ある家庭で育てた方が良いと思った。
  2. しかし、窃盗行為を起こすまでになってしまい、やはり先生が言っていたことが正しかったのだと思い直した。
  3. 自分たちは息子が良くなるように努力してきたが、息子自身の問題は私達の手に負えないものだった。
  4. だから、問題行動を矯正するために軍隊学校に入れるしかなかった。
こう話せば周囲の人から同情を買うことだってあるだろう。 すべてはメンツを保つために計算づくなのである。

>>つづく

引用元の本。

息子に兄が自殺した拳銃を渡した親、息子を軍隊式の寄宿学校に入れた親。著者の彼らに対する分析は、私が感じたこととほとんど同じだったが、精神科医としてこのような人間を何人も見てきただけあり、的確な分析を書き記している。 

彼らは正反対の感情を隠すために愛を装うのだと言う。最終的に息子を軍隊式の宿舎に厄介払いした親は、息子に愛情などないが、息子のことを心配していることを装い面談に来た。彼らはそうやって他人を騙すだけでなく、自分自身をも騙そうとしている。それは自分の邪悪性を認めないためだと言う。

著者は二度目の面接で、今は息子さんは学校に残りたがっているとこの両親に伝えた。しかし、その後、彼らは手紙で「先生の言葉に従い、矯正のために軍隊式の宿舎に入れた」と伝えてきた。彼らがそう書いた時、本当に私の言葉に従ったと信じ込んでいたのではないかと著者は分析する。息子を家から追い出す事を正当化する記憶の捻じ曲げは無意識に行われたのかもしれない。

彼らは見せかけの善人の皮が破れて、自分の邪悪性がさらけ出されるのを恐れている。自分の邪悪性と向き合うことを恐れている。ゆえに善人のように振る舞おうとし、自身が善人であると信じようとするのだと著者は分析する。

以下は著者の言葉の引用である。

「イメージ」「外見」「外向け」といった言葉が、邪悪な人たちの道徳性を理解する上で重要なものとなる。彼らには善人たらんとする動機はないように思われるが、しかし、善人であるかのように見られることを強烈に望んでいるのである。彼らにとって「善」とは、まったく見せかけのレベルにとどまっている。これはとりもなおさず虚偽であり、私が彼らを「虚偽の人々」と呼ぶゆえんもここにある。

虚偽とは、実際には、他人をあざむくよりも自分自身をあざむくことである。彼らは、自己批判や自責の念といったものに耐えることができないし、また、耐えようともしない。彼らは慎み深さをもって暮らしているが、その慎み深さは、自分自身を正しい者として映すための鏡として維持されているものである。

この素晴らしい分析と表現力に、私はただ唸るしかなかった。「的確に私の父親のことを表しているなあ!」と。そして夫婦仲が悪く、子供にも愛情がないにもかかわらず、父親が離婚しなかった理由も理解できたのだ。

私が長年父親の本性、邪悪性を見抜けなかったのも無理はない。その邪悪性を覆い隠すための虚偽によって自分自身をも騙しているからだ。父親も彼ら同様に虚偽の人なのだ。

父親が50代の頃には、母親とは口を利かない仲になっていたが、浪費家の母親にお金を渡し続けた。そして、家のローンを組むこともなく、貯金や年金の支払いも確認せず、65歳であとはよろしく頼むと私に言ってきた。そして、確認したら貯金ゼロで、まさかの無年金である。

当時の私は気づくことができなかったが、こんな形で老後を迎える時点で、嫁の面倒を自分で見ていく気持ちも、子供の人生も考えない人間なのは明らかである。なら、不仲になっていた50代の時点で「俺はもうあいつとはやっていけない。後の面倒は頼んだ。」そうやって私に母親の事を押し付けて、一人で生きていけば良かったのだ。

実際、私がなぜ夫婦で老後のことを話し合わなかったのかと問い詰めた時も「お母さんのことは投げた」とちゃぶ台返しの仕草で言ってのけた。投げたつもりだったのなら、離婚して稼ぎは全て自分のものにして自由になれば良かったのだ。

父親は70歳を過ぎた今も人並み以上の稼ぎがあり、それまでも人並み以上の稼ぎがあった。50代で離婚して独り身になれば、老後も十分な貯金と年金があっただろう。父親は母親のような浪費家ではなく、むしろ倹約家だ。仮に母親に慰謝料を渡すか、毎月いくらか払ったとしても、老後十分な蓄えはできたはずだ。私含め子供はみな成人していたし高い養育費を払う必要はない。

私からしても、65歳で無年金、無貯金で老後迎えて、二人の救済に入る羽目になる事に比べたら、50代で母親一人の生活を引き受ける方がぜんぜんマシだ。今まで母親に仕送りしていた分を母親の年金に回していただろうし、そうすれば母親も無年金になることはなかっただろう。

なぜ、父親は離婚して自由の身にならなかったのか?それは社会人としてのメンツを保つためである。もし嫁のことを子供に丸投げして、自分は一人で好き勝手に暮らしていたら、周囲の人間に社会人失格のように見られる。また親兄弟に結婚を反対を押し切って結婚した経緯もあり、離婚したら親族の前でメンツが立たない。そういったメンツを守るために離婚しなかったのだろう。

単身赴任で働く父親に蓄えができた時、一緒に住むために私が借り今も母親と住んでいるマンションを狭いから引っ越したい、家を買いたいと言い出した。その時、土地を持っていないと人から信用されないんだといった話もしていた。 要するに人並みに持ち家がある状態で老後過ごせる形にして、メンツを保ちたいということだろう。

もちろんそれは父親の貯金で家を購入し、私が老後の生活費を出すことが前提である。母親は脳梗塞を起こし再発のリスクがある話もしており、しかも無年金にもかかわらずである。自分たちが高齢になり病気や介護状態になった時、ろくに年金も貯金もない状態で私が一人で面倒見ていく事になったらどうなるかといった事は考えずに、今この瞬間自分のメンツを守ることを優先して考えるのである。

自分一人分の老後資金は作れる見込みはできたのだから一人で暮らして欲しい、私には私の人生がある、母親の面倒は私が見ていくと言った時も、そんなみじめったらしい暮らしは嫌だと言った。老後一人で暮らしていくことに金銭、健康の不安があるのであれば、それを訴えるはずだ。そうでなく「みじめったらしい」という外向けのイメージを気にしている。賃貸マンションなんかで老後一人で暮らしているのを、親族や知人に知られたら恥をかくといったことを気にしているのだろう。

まともな家庭で育った人間なら、そもそも持ち家を持とうとしない時点でおかしいと思うのだろうが、こういった親の元で育っていると、おかしいとは思わないものなのだ。「子供を育てたり、学校へ行かせるのにお金がかかった」と私達子供はよく言われていた。だから持ち家がないのは、両親共に生まれ故郷を離れた地で結婚していて引き継ぐ土地もなく、しかも子供が3人いて他の家よりお金がかかるからだと思いこんでいたのだ。

しかし、今になってわかったのは、私の父親の収入は住んでいた地方では高給取りといっていいくらいであり、同じように生まれ故郷を離れている人でも、子供3人育てて1〜2人大学に通わせ、持ち家があり自活できるだけの年金があるのは全く普通であるとわかった。そして、改めてまともな家庭に育った人に聞くと「そもそも子育てにお金がかかったという話を親からされたことなどない」と言う。

さらに今になって相当におかしいと思うことが、父親の仕事が建築業であるということだ。人の家を建てる仕事もしており、祖父の家の設計の手伝いもしているのである。また仕事で銀行との繋がりも強く、銀行の重役クラスの人たちとも顔が利くようだった。つまり、家のローンについて相談できる相手も身近にいたのだ。彼らからローンや個人年金の話を振られる機会があってもおかしくなさそうだ。にもかかわらず、持ち家を持とうとせず、あげく貯金や年金がいくらあるのか確認もしないまま、あとのことはよろしく頼むと私に言ってくる始末である。今さらながら相当に気が狂った感覚である。

父親は飲んだくれたり、子供に暴力を振るうようなことはなく、世間のまっとうな人間と同じように毎日遅くまで働いてきた。一緒に遊んだ思い出はないが、仕事が忙しいからだと思っていたし、父親の世代では子供のことは嫁任せは当たり前の話だった。だから、子供の人生を全く考えない父親という認識を持つことはなく、夫婦仲が悪く話し合いをせず母親の散財が原因で老後生活が破綻したと思ってしまったのだ。

でも、そうではないと今はわかる。父親が上辺のメンツのために夫婦生活を続けていたことも大きな原因なのだ。父親にとってメンツとは命の次くらいに大事で、子供の人生よりもずっとずっと大事なものなのだ。

メンツを保つために父親は、父親、夫としての役割を演じ続けた。私が父親を子供の将来を考えない人間だと気づかなかったのは、このような虚偽のためである。

子供とあまり話さない父親だったが、子供の人生などなんとも思わない親だとは思わなかった。些細なことで不機嫌になるが、子供に暴力を振るうようなことはなかった。日夜遅くまで働いていたし、それは家族の生活のためであり、家族に思いがあるからだと無意識に思っていた。

学期末テスト後、先生と私を含めた三者面談にも来ていた。面談後に進路はどうするのかといった話をすることはなかったが、そういう場に来るということは、私の将来を気にかけているものだと無意識に思っていた。父親が子供の人生に何の責任感もない人間だと思う事は全くなかったのだ。

しかしこのような父親らしい振る舞いは、自分を正しい者として鏡に映すための虚偽だった。日々まじめに働き、生活費は母親に入れ、子供を学校に通わせ、慎ましやかな生活をしているのは、まっとうな社会人、正しい者というイメージを保つことを目的としているもので、そこに家族を思う気持ちや道徳心はないのだ。

真の道徳心を持っていたのなら、きちんと夫婦で話し合い、家のローンを組み、年金も支払い、貯蓄をし老後の生活に備えたはずだ。他人の表面的な振る舞いを真似し、正しい者のように振る舞うだけでは、それは達成できないことだった。

自分一人分の老後の費用を作れる見込みができても、頑張って自分の老後の生活費はなんとかする、お前にはお前の人生がある、嫁の面倒をみさせてすまないといった話にはならないのも道徳心がないからだ。そんなことより老後一人で賃貸マンションで暮らすことで、まっとうな老後生活を送っていない、正しい者として鏡に映らなくなることのほうが問題で、私の人生を食いつぶして生活することを前提で家を買いたいと言い出すのだ。

平気でうそをつく人たちに出てくる親と同じである。彼らは子供のことを心配しているかのように精神科医の著者の元に訪れたが、著者が邪悪性を見破りあなたたちも治療が必要だと言うと、全面的に子どもの問題であるかのように主張し、最後は子供を矯正のためとして軍隊学校に入れさせた。自分を正しい者として鏡に映し続けるためなら、子供の人生が狂おうがお構いなしなのだ。

さらに不可解なのは、このような外向けのイメージを世間の人間に対してだけではなく、愛情のない家族の前でも保とうとするのだ。これは平気でうそをつく人たちの著者が言うように、自分自身を欺いて邪悪性を隠し自分が善人=良い夫・父親であると信じるためだろう。だから、私はずっと父親の本性を見抜くことができなかった。

父親の本性に気づく前の事であるが、父親が「俺に対して娘たちの見る目が変わった」という話をしたことがあった。私達子供が全員家を出て自立した後も、母親は私達子供によく父親のことを悪く言っていた。父親は些細なことで不機嫌になり、偏屈な人間なので、私も妹もあまり口をきかなかった。そのことで父親は疎外感を感じていたのだろう。

父親は母親にお金を渡し続けただけで浪費するようなことはなかった。その上、今も単身赴任で働いて老後の費用を頑張って貯めようとしている。と、当時の私はそう思っており、妹たちも同じように思っていたのだろう。「娘たちの見る目が変わった」という言葉を聞いた時、私は父親に同情し、今までないがしろにしすぎたと反省もしたのである。今となっては我ながらなんと間抜けな話かと思うが。

母親が入院した時も見舞いに来ていたし、退院後も面倒を見ることもあった。今までどおり母親の些細な言動でかんしゃくを起こすこともあるが、不器用だけど母親に感情があり夫としての責任感はある人間のように見えた。しかしこれも自分を良き夫のように見せるための虚偽だった。

父親が母親の容態を心配しているのではなく、メンツを保つためにそのような振る舞いをしていたのは今となっては明らかだ。母親が脳梗塞から退院後し再発を防ぐために食事に気を使いつつ血糖値を測っていたのだが、それを見て「そんな食事では精がつかない、血糖値は180くらいあったほうがいい」と言うことがあった。血糖値の目標値は患者によると思うが私の母親の場合、医者が推奨していたのは100〜120だった。いずれにせよ180という数値は明らかな高血糖であり、でたらめな数値だ。

血管や腎臓への負担のために塩分も控えなければいけないという話には、夏場は汗をよくかくし塩分が不足しがちだから塩分は余分に取るべきだ。建築の現場でも夏場は塩分が不足がちになるから塩あめを持ち歩いているという。そんな話は外で働いて汗だくになるまで働いている人の話である。ほとんど家で生活している母親が夏場汗をかいたところで塩分不足になることはまずないというのに。

そして医者も言っていることだし私も調べたことだからというと、またいちいち俺の話に反論するのかとうんざりした顔をするのだ。もう少し私のことを信用して欲しいという話をしたこともあるが、信用していないことはないと言い一時的にこのような反論はおさまるが、しばらくするとまた同じことが始まるのだ。

その時は歳のせいだろうかと思ったがそうではなく、メンツを満たすために自分が主導権を握っているポーズを取りたいからだろう。後で述べるように本性を知った私がメンツをあおったらあっさり離婚しており、自分で最後まで母親の面倒を見る気がないのは明らかだ。母親の病状が悪化して介護が必要になろうが、自分が介護と金銭負担をするものだという認識がないから、病状の理解はせず今この瞬間自分のメンツを満たすためにでたらめなことを言うのだ。

典型的なのは母親が退院してしばらくしてのこと。父親が母親に水を持って行き、母親がそんな冷たい水はいらないと言うと、それだけで腹を立て3日間口を利かないまま単身赴任先へ帰った。敬意が払われていないと感じるとささいなことで癇癪を起こすのは、母親のことを思ってではなく自分のメンツを満たすためにやっているからだろう。

離婚した今も母親とたまに会い、食事に連れて行ったり小遣いを渡したりしている。母親への思いは全くないわけではないのかもしれないが、本来は金銭的なことを含め自分で嫁の面倒を見ていくべきという認識は今もないだろう。母親に良き夫として、娘に良き父親として外向けのイメージを保つための虚偽を続行しているだけなのだ。

父親は家族を守る責任感や道徳心はないが、家族に良き父親、夫のように見られたい、認められたいという感情だけは強くあるのだ。平気でうそをつく人たちの中にある「彼らには善人たらんとする動機はないように思われるが、しかし、善人であるかのように見られることを強烈に望んでいるのである」という言葉通りの行動である。

私が両親と再び一緒に住み始めて間もないころに撮った写真がある。母親、妹と一緒に写り、真ん中で父親が笑みを浮かべている写真だ。父親と母親はろくに口もきかない仲だったが、私が一緒に住んで間を取り持ったこと、父親が単身赴任で働くようになりたまにしか帰ってこないことで、適度な距離感ができ二人は口をきくようになった。私が一緒に住み始めた理由は老後生活の破綻だったが、それでも夫婦仲が良くなったことは良かった。私はそのように思っていた。

この写真の父親が浮かべている笑みは、やっと俺を父親として受け入れてもらったとでもいわんばかりの満足そうな笑みである。何も知らずに見れば良い家族写真に見えるだろうが、本性を知った私にはゾッとするような気味の悪い写真だ。父親、夫としての責任をすべてを放り投げておいて(本人にその自覚もないが)、メンツのためだけに夫婦生活を続けたあげく、ようやく父親として認めてもらえたと喜んでいるのだ。

父親に道徳心がないのは離婚に至る経緯からしても明らかである。

渋る父親に離婚届に判を押させる時に決め手となったのもメンツ(外向けのイメージ)だった。私には私の人生がある、もう十分協力したし、自分の老後の資金は自分で作れるしやりきって欲しいと訴えたら、「おかしな話になってきたぞ」「そういう話になるのか」と自分を切り捨てようとしているかのような感情を抱き、あげく育ての恩知らずの親不孝者のように言うのだった。

その言動からようやく私は父親の本性を疑うようになり、周囲の人間に経緯を話し、彼らの反応を見て(一部の人間は身をのけぞるほどに驚いていた)、子供の人生など考えもしない人間だからこのような状況を作ったのだと理解した。そして、世間の人間はみな老後自活しているのにそんな考えはありえない、父親・夫としての役割放棄だし、嫁の面倒を自分で見られないなら離婚せよと手紙を突きつけた。それで父親もようやく自分がおかしいのかもしれないと思ったのか、もともと自活するつもりだったと言い出した。

もちろん、これまでの言動と矛盾する明らかな嘘である。自分が間違っていることを認めてメンツがつぶれるくらないなら、こうやって平気で嘘をつくのだ。まさに「平気でうそをつく人たち」という本のタイトルそのままであり、そこに書かれているように「自己批判や自責の念といったものに耐えることができないし、また、耐えようともしない」から、間違いを認めず嘘をつくのだ。

そして道徳心がないゆえに、もともと自活するつもりだったという理由付けもありえないものだった。まず単身赴任で働くようになったきっかけは、嫁が年老いて食事の支度をするのがしんどいと言い出したからで、今後も一緒に住めないだろうから一人で暮らす事を考えていたのだと言うのだ。

仮にそれが本当だったとしたら(もちろん嘘だが)、最初から嫁の面倒を自分で見る気がなく、息子の私に丸投げするつもりだったということになる。それこそが夫、父親としての責任放棄だということを理解できないのだ。その上、離婚は簡単にはできない、家族や親族と話し合いが必要だと言う。嫁の面倒を自分で見ない・見られないのなら、夫婦関係が破綻しているのだから離婚するのが当たり前のはずなのにである。

こんな父親とはもう付き合っていけないし、縁を切るためにもなんとしても母親と離婚させたい。どうすればよいかと父親の手紙を見返していたら「親族との話し合い」という言葉に引っかかった。家族との話し合いはわかるが、なぜ遠方にいるほとんど顔を合わさない親族(父親の兄弟)の話が出てくるのかと。

私はこのようなことだろうと考えた。この離婚の突きつけが正しいか第三者の判断を仰ぎたいか、親族を話に加えると私がひるむと思ったか。もしくは
離婚したことが親族にバレてメンツが潰れることを恐れているか。この期に及んでまだ自分に否があることを理解せず、メンツを事を気にしているのかと腹が立ったが、逆にこのメンツを利用することを思いついた。そして今度は手紙にこのように書いたのだ。

「夫婦関係である以上、嫁に介護が必要になったら、法的に夫が背負う必要がある。そうなれば自分の老後生活の蓄えは、母親の介護費で無くなるだろう。私は私の人生があるので、あなたの生活費を払うことはない。だから生活保護を受けるしか無くなる。生活保護を申請すると行政から親族に支援ができないか手紙が行くことになる。そうなれば兄弟にろくに年金がないと知られ大恥をかくことになる。でも離婚しても親族に通知がいくことはないしメンツがつぶれることはない。自分のメンツと財産を守るためにも離婚したほうがいいはずだ。」

この手紙と一緒に離婚届を送ったら判を押したのである!

私には私の人生があるという話や、嫁の面倒を自分で見る気がないなら離婚すべきだという話では判を押さなかったのに、メンツを煽ったら押したのだ。この件で父親はまともな道徳心を持ち合わせておらず、メンツだけを行動原理としている人間だと確信した。外向けのイメージを守るだけの虚偽の人である。平気でうそをつく人たちの著者の表現はなんと的確なことか。

改めてこの本の絵表紙を見ると父親のような人間をよく表していると感じる。顔が仮面のように剥がれ落ち、そこには空が広がっている描写だ。正しい者として振る舞う虚偽の仮面が剥がれたら、人間らしい心など何もないことを示しているのだ。青空ではなく暗闇の方がよりふさわしいと思うが。



この本に感銘を受けた私は、Amazonで関連商品として紹介されている他の本を読み、さらに理解を深めた。平気でうそをつく人たちの著者はすでに亡くなっており、やや古い世代の人間で「邪悪な人々」「虚偽の人々」という独自の表現をしているが、この本に出てくる人たちは現代の心理学ではサイコパス」と呼ばれる人々であろう。

そして私の父親も典型的なサイコパスだと言えよう。さらに私自身、遺伝的にサイコパス傾向があると自覚することになったのだ。

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